Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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<我々自身の無意識>としての「普遍化された優生主義」――「応答型文章完成法(Responsive Sentence Completion Test)」による言表分析の試み
1.「優生主義」の普遍化
Keywords, Key-concepts:
*根治不可能とされる遺伝性疾患の発症が予測される子どもの出生の予防、さらには多因子遺伝病とされる生活習慣病の遺伝素因を持つ者の抽出と選別
*個人、カップルの自由な選択による遺伝性疾患の診断、治療、予防という「新優生主義」理念の実践⇒「ハイリスクグループ」として抽出された集団の社会的選別過程の開始
⇒汎社会的領域における「優生主義(Eugenics)」の普遍化という事態
*「優生主義(Eugenics)」=正/負の価値軸に応じた社会集団の選別を目指す思想と実践⇒この思想と実践は、「この私の(または誰かの)生存が、他の誰かの生存よりも一層生きるに値する」という言説として明示化され得る無意識的信念にもとづくと仮定される。
⇒「普遍化された優生主義」
2. 「普遍化された優生主義」の分析に向けて
*「普遍化された優生主義」を、<我々自身の無意識>として捉え直し分析する。
*この信念は、「QOL(生存の質:Quality of life)」という概念を一元的な価値尺度として先取りしており、「個々人の生存価値=QOLは階層序列化可能である」という信念に置き換えられ得る。⇒さらに、この信念は、「テクノロジー(遺伝子の選別・改変という技術的介入)によるQOL向上は正当化できる」という信念に置き換えられ得る。
*個人が言語活動の主体として構築されていく過程で、発話行為や書く行為として実践・反復される一群の言説が生産される。<我々自身の無意識>は、この実践を媒介している。
*<我々自身の無意識>としての「普遍化された優生主義」は、「応答型文章完成法」を活用したアンケート調査を通じて言語化される。以下において、アンケート調査の応答文のサンプル(実際に使用する質問票)を示す。この言表分析により、被験者によって完成される応答型文章(応答文)の生成過程を媒介する文脈が分析される。
【質問票】
下記のそれぞれの<a>欄(以下、「テーマ文」と表記される)の発話文を読んで、最初に頭に浮かんだ言葉を<b>欄に記述して下さい。記入の際には、他の人と相談せずに自分だけで記入して下さい。どのように書けば正解ということはありません。また、制限時間はありません。訂正は、なるべく2本線で行って下さい。
1.<a:これからは、自分の子どもが生まれてくる前に、その子どもの遺伝子を変えることができるようになるかもしれない。どういうことかと言うと、もしこれまでのように何もせずにそのまま生まれてきたとしたら、成長するにつれて難病などになってしまうことがあらかじめ分かっているような子どもでも、これからはそうはならないようにすることができるということだ>
<b>:(この空欄は、少なくても5行以上記述可能なスぺースを確保する)
2.<aさっき言ったことをさらに進めて言うとこうなると思う。これからは、子どもが生まれてくる前に遺伝子を変えて、何もせずにそのまま生まれてきたときよりももっと健康だったり、背が高かったりする子どもを産むことも技術的にはできるようになるということだ。本当にそうなるかどうかは分からないが。すると、カップルの希望に応じた子どもを作るといったSFのような話も夢ではなくなるかもしれない>
<b>:(同上)
3.<a:もっと身近な、もうすでに始まりつつある話もある。個人個人で違う遺伝子を検査したり診断したりすることによって、これから生まれてくる自分の子どもに、さっき言ったような何か深刻な問題が見つかったとしても、産みたいと思ったこどもだけを産むことができるようになるということだ。遺伝的な問題は、ある特定のガンになりやすいとか、アルコール依存症になりやすいとか、さらには攻撃的な性格になりやすいとか色々なことが考えられるようだ。ともかく、治療方法のない難病などの場合、それが個人やカップルの選択によるのなら、受精卵を廃棄したりして出産をあきらめてもやむを得ないと思う>
<b>(同上)
3. 「普遍化された優生主義」の分析論
筆者は、2005年3月27日から9月1日にかけて、アンケート調査の対象者による回答(応答文)の第一段階の分析作業を行った。対象者は、民間株式会社である指定居宅サービス・指定居宅介護支援事業者に所属する職員である。なお、分析の第二段階~最終段階の作業時期は、2006年5月から2006年12月15までである。
*以下分析対象(原資料1)
1.
<b>:
遺伝子を変えることは、生まれてくる前の子どもに対し、してはならないと考える。成長するにつれて、難病などになってしまうのを防ぐという目的のみに運用されるとは考えにくいし、倫理上、問題がある。天才の集団をつくることも、戦闘の集団をつくることも、可能になりうるし、遺伝子を変えることが許認可制ならば、管理する側が大きな権力を持つ可能性が高い。人間も、他の動物も、植物も、基本的には自然に存在するのが、地球の生命体として必要なのではないかと考える。
2.
<b>:
子どもは、親の欲望に応じて存在するとは思えない。一個の別人格を持つ人間である以上、個人の遺伝子を勝手に変えること自体、許すべきではない。他にも前述のリスクがある以上、簡単に発動して良いとは思えない。また、個人の価値観なので、もっと健康だったり、背が高かったりすることが、遺伝子を変えてまで手に入れなければならないものなのか疑問である。
3.
<b>:
羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので、中絶をした話を聞いたことがあるが、実際に産んだ後の負担を考えれば、否定することはできない。遺伝子異常の子供を持つ親の話を聞いたこともあるが、いちがいに負担ばかりを考えているわけではなく、子どもを持てて幸せを感じている場合もある。実際に立場になってみないことには安易に発言できないが、深刻な問題についての基準は、明確にしておかないと、ささいな事で、出産しない親が増加するような気はする。
*基本的分析テーマ:「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること(以下「遺伝子改変」とする)」を巡る正当化の論理
1.「難病の予防の特権性」による遺伝子改変の正当化の論理
*「難病」や「終末期状態」という概念に関わる、あるいはそれら概念が指示する状況においては、または将来的にそういった状況の実現が予想されるという条件の下では、(将来的に生まれてくる可能性がある者を含むものとして定義された)他者の生死という分岐を操作・決定すること(「受精卵の廃棄等による出生の予防または安楽死等による延命の中止=死」か「出生の許容または延命の継続=生」かの選択行為)が正当化され得る。
*ここで、他者の生死という分岐を操作・決定する思想と実践の総体を、「生命の――あるいは生命体の生存そのものの――選別操作」(以下「生命の選別操作」とする)という概念で略称する。「難病の予防の特権性」による遺伝子改変の正当化の論理、「延命拒否の論理」、「(消極的または積極的)安楽死」の論理は、いずれも生命の選別操作という概念に基づいた正当化の論理という基盤を持つと考えられる。
*さらに、難病の予防に限定した遺伝子改変の正当化の論理と、この限定を欠いた場合に遺伝子改変を批判あるいは拒絶する論理は、ともに「生命の選別操作」という概念に基づいた正当化の論理の統御下にある。何故なら、これら両者において、難病の予防という限定の有無に応じた生命の選別操作の正当化という共通した核が存在するからである。
2.「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること(遺伝子改変)はしてはならない」という主張の正当化の論理:「子どもは、親またはカップルの欲望に応じて存在するものではない」
⇒「子どもは、親(「シングルマザー」等の一個人の場合を含む)またはカップルの欲望に応じた生存価値を持つかどうかという基準に従って存在させられるかどうかが、またはその出生が許容されるかどうかが決定されるという事態が正当化され得る存在者ではない」
⇒「子どもは、親またはカップルの欲望に応じた生存価値を持つように予定された形でこの世界へと存在させられてはならない(また逆にそうした生存価値を持ち得ないことが想定される場合に、この世界への出生が阻却あるいは予防されるような存在者であってはならない)」
*この場合の「子ども」は、まだこの世界へと生まれてきていない仮想的な存在者と想定されているが、同時に、上記の「生命の選別操作」の対象として想定されている。
正当化の論理.2-[2]:他者の価値観への問い:「たとえ生まれてくる前であっても、親とは別の存在、あるいは一個の別人格を持つ存在である。そうである以上、これから生まれてくる子どもの、言い換えれば、親またはカップルとは別人格を持つ存在の遺伝子を勝手に変えることは許されない」
*この主張に対して、以下のような問題提起を行う。
*まず、「個々人が、生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えることを肯定するかどうかは、それら個々人の価値観に由来して決まるのであり、私たちはその価値観自体を誤った価値観として拒絶することはできない(その価値観自体を拒絶することを正当化し得ない)」という論を想定する。
*その上で、先の「子どもは、親の欲望に応じて存在するものではない。たとえ生まれてくる前であっても、親とは別の存在、あるいは一個の別人格を持つ存在である。そうである以上、これから生まれてくる子どもの、言い換えれば、親またはカップルとは別人格を持つ存在の遺伝子を勝手に変えることは許されない」という主張をする者が、上記の論を原則として認めるとする。
*その場合、この者は、「子どもは、親の欲望に応じて存在するものではない。たとえ生まれてくる前であっても(……)変えることは許されない」という主張を、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えてはならない」という主張の論拠とすることができるのか。
*さらに、ある個人の価値観が、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えること」に肯定的であった場合、先の「子どもは、親の欲望に応じて存在するものではない。たとえ生まれてくる前であっても(……)変えることは許されない」という主張をする者は、「子どもという親またはカップルとは独立した一個の別人格を持つ他者」という概念を、そういった他者の価値観への批判の論拠として自覚的に位置づけているのか。
⇒ここで、「自覚的に位置づけている」とは、次の事態を意味する。すなわち、その者が、「遺伝子改変を肯定する価値観自体を誤った価値観として拒絶することはできない」という論を原則として認めながらも、なおそういった概念に依拠した上記価値観の批判を正当化可能な試みとして位置づけながら遂行しているという事態である。
*その場合、我々は、「個々人が、生まれてくる前の(……)私たちはその価値観自体を誤った価値観として拒絶することはできない」という論を認める者が、同時に「子どもは、親の欲望に応じて存在するものではない。たとえ生まれてくる前であっても(……)変えることは許されない」という論を主張するという事態を、正当化不可能なものと位置づけることはできない。
*また、「個々人が、生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えることを肯定するかどうかは、それら個々人の価値観に由来して決まるのであり、私たちはその価値観自体を誤った価値観として拒絶することはできない(その価値観自体を拒絶することを正当化し得ない)」という論は、特権的な正当化の力を持たない。
3. 意思決定=選択行為の概念的・方法論的規定
ある個人が、他の個人またはカップルから、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という話を聞いたとする。この場合、その個人は、そうした話を聞いて、そのような経験をした「個人の価値観」を推測することになる。ここで、そうした経験を、その個人またはカップルの意思決定=選択行為として捉える(記述する)ことができる。すなわち、この経験は、それ自体、その都度の意思決定=選択行為の生成過程として捉える(記述する)ことができる。この事態は、その個人またはカップルの意思決定=選択行為が、その経験を通じて、その経験と不可分なものとして生成したという形で記述可能である。また、もしその中絶という経験または意思決定=選択行為が、その個人またはカップルにとって初めて遭遇するものだとすれば、その経験または意思決定=選択行為によって、あるいはそれを通じて、「その個人またはカップルの価値観」が何らかの様態において生成したと考える(記述する)ことができる。つまりこの場合、意思決定=選択行為を導く「個人の価値観」があらかじめ存在していたのではなく、まさにこの経験あるいは意思決定=選択行為を通じて、「個人の価値観」が何らかの様態において生成したと考える(記述する)ことができる。
すなわち、経験と行為の、意思決定=選択行為としての生成過程の総体を、個人またはカップルが「再帰的に(記述可能なものとして)捉えた(=記述した)」ときに、その個人またはカップルにとって「自らの価値観」が立ち現れてくる(生成する)。このとき、再帰的に(記述可能なものとして)捉えられた個人またはカップルの意思決定=選択行為は、同時にこの個人またはカップルの価値観を表現する意思決定=選択行為として捉える(記述する)ことができる。
次に、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という先の伝聞対象としての経験を、個人またはカップルの価値観を表現する意思決定=選択行為として捉えた(記述した)上で、現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の個人、すなわち上記の個人またはカップル以外の任意の個人としての<私たち>がこの価値観を対象化する(再帰的に=記述可能なものとして捉える)という事態を考える。
<私たち>がこの価値観を対象化する(または対象化しようとする)場合、この価値観は、<私たち>にとっても了解可能なものとして捉えられている。このとき<私たち>は、「羊水検査の結果、遺伝子異常が見つかったので中絶をした」という経験または行為を、我がことのように想像することで、そのような場合にこの私が抱くかもしれない、または抱くに違いない考えはこのようなものであろう、と想定することができる。
こうした想定を何らかの共有された核としたときに<私たち>にとって再帰的に(記述可能なものとして)立ち現れてくる(生成する)考え方の枠組みが、単に一般的なものとして捉えられた(記述された)「個人の価値観」である。それは例えば、「遺伝子異常を持った子どもを実際に産んだ後の負担を考えれば(想像すれば)、中絶を否定することはできない」といった記述(言表)が表現する価値観ということになる。
ここでのポイントは、この意味での「個人の価値観」は、先に見た「自らの価値観」とは厳密に異なるということである。この「個人の価値観」とは、「個々人がどのような価値観を持とうと、私たちはその価値観自体を誤った価値観として拒絶することはできない」という記述(言表)における「個人の価値観」である。また、上記記述(言表)における「主語=私たち」とは、その都度焦点化される任意の現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の個人としての<私たち>である。
「遺伝子異常」が見つかった子どもを中絶することは、「生命の選別操作」という概念に包摂される意思決定=選択行為であるといえる。だとしても、<私たち>にとって単に一般的なものとして捉えられた、「中絶はやむを得ない、あるいは中絶は積極的に認められるべきだ」とする「個人の価値観」を持つと想定されるそれぞれの個人において、そのことへの認識があるのか無いのか、またあったとしてもそれがどのような内実を持った認識なのかは、<私たち>にとっては明らかとはならない。
仮に<私たち>が「中絶はやむを得ない、あるいは中絶は積極的に認められるべきだとする価値観は、生命の選別操作を肯定するものである」と主張したとしても、その主張はそれ自身の正当化の根拠を持ってはいない。すなわち、<私たち>によるその現実の意思決定=選択行為の「価値付け」と「価値相対主義的中立化」という上記二つの操作=記述行為は、いずれもそれ自身の正当化の根拠を持ってはいない。
*「遺伝子異常を持った子どもを実際に産んだ後の負担を考えれば、中絶を否定することはできない。遺伝子異常の子どもを持つ親の話を聞いたこともあるが、いちがいに負担ばかりを考えているわけではなく、子どもを持てて幸せを感じている場合もある」
⇒この記述の主体は、中絶あるいは遺伝子改変という現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の者である<私たち>の内の一人である。だが、このことから、この個人=記述主体は、「遺伝子異常を持って生まれてくる子どもは、むしろ生まれてこない方が望ましい」あるいは逆に、「遺伝子異常を持っていたとしても生むべきである」という「自らの価値観」を持っていないとは必ずしもいえない。この個人が、たとえ中絶あるいは遺伝子改変という現実の意思決定=選択行為の主体ではなかったとしても、それによって先の「自らの価値観」が生成した他の何らかの現実の意思決定=選択行為の主体であったことはないとは必ずしもいえないからである。
*以下分析対象(原資料2)
1.
<b>:
どんなことでも最初の人は勇気が要るし、危険も伴う。病気がなくなるのはいいことだし、こういった過渡期を越えれば、犠牲もなく、病気もなくなるといった世界がくるのなら、それもあり得る。
2.
<b>:
かなり極論だと思う。自分の子どもは、例えば男児なら妻が夫の子供時代を理解する手がかりになり、女児なら夫は妻をもっと分かるようになり、お互いをいとおしく思い合えるようになる。そして夫婦として完成していくといった幸福感、家庭という固い絆がきずかれ、それが広がって地域へ国へ世界へとつながるのではないか。カップルが工作するのでは決してないと思う。
3.
<b>:
…と思う。
*この事例におけるテーマ文1と2に対する応答記述の違いをどのように考えればよいのか。
*ここで、「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変は、個別的な属性の序列化が生存そのものの序列化と本質を同じくすることから肯定される。すなわち、生存それ自体が健康であることを目指す遺伝子の改変は、生存それ自体の序列化の肯定である」という論点が浮上する。
*仮説:テーマ文に応答する個人にとって、テーマ文1は「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」に対応し、テーマ文2は「個別的な属性の序列化」――同時に生存それ自体の序列化であるがこの個人=記述主体にとってはその認識はない――に対応するものとして受け取られるために、二つの記述が一見不整合なものとして分岐する。
*先の個人=記述主体にとって、「生存それ自体が健康であることを目指す遺伝子の改変は、生存それ自体の序列化の肯定である」という認識は存在していない。すなわち、この個人=記述主体にとって、「個別的な属性の序列化」という価値観に基づいた「属性に関わる遺伝子改変」に対する懐疑はあっても、それが「同時に生存そのものの序列化を意味する」という認識はない。
このことが妥当するのは、先の個人=記述主体に限らないと考えられる。従って、記述の分岐を説明する一般的仮説は、次のようになる。
1. テーマ文に応答する任意の個人=記述主体にとって、テーマ文1は、「生存それ自体
が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」に対応するものとして肯定的に意識化(記述可能なものとしての対象化)される傾向がある。
2. テーマ文に応答する任意の個人=記述主体にとって、テーマ文2は、生存それ自体が
健康であることへの希求や欲望とは異なる「個別的な属性を序列化する欲望に基づく遺伝子の改変」に対応するものとして否定的に意識化される傾向がある。
3. 以上二つの応答する個人=記述主体の主観的な意識化過程の分岐がこの個人=記述主
体において存在する場合、それぞれのテーマ文に対する二つの応答記述が、それぞれ肯定的・否定的という形で一見不整合なものとして分岐する傾向がある。
*上記の仮説によって、主観的な意識化過程を超えた根底的なレベルにおいて――言い換えれば、その都度の文脈生成過程に対するマトリクス=母胎的な文脈生成過程として――一貫した文脈の生成過程を想定することができる。
*「記述の空白」について:我々にとって本来どこにでもあるはずの、ごく自然な「日常的世界」は、<我々自身の無意識>を穿つ亀裂がこのメカニズムによって<予防>されることで成立する。
*以下分析対象(原資料3)
1.
<b>:
確かに、遺伝子が解決されれば、全て、生きとし生けるものに係わることは、解決されるに違いない。
2.
<b>:
しかし、ほんとうにそうなるだろうか。クローンの動物は早死しているし、所詮、人間が創るものだ。人は神になれるかという哲学的な問題に発展していくことになるだろう。
3.
<b>:
さきほどまでは、身近には考えていなかったかもしれない。しかし、現実問題、自分の身に置き替えてみると、遺伝子に傷がついていた、変な子が生まれるかもしれないと思うと、その時になってみなければわからない。否、考えたくないと思っている。
先の一般的仮説を包括する、より根底的な以下の仮説を提起する。
:「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変は、肯定的なものとして意識できるが、個別的な属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変については、私は懐疑的である」という応答記述は、根底的な文脈生成過程の連続性の効果であり、その連続性を表現している。
*この「根底的な文脈生成過程の連続性」とはどういうものなのか。
テーマ文3で提示された受精卵の選別・廃棄という行為は、遺伝子の改変という行為と同様に、これまで私たちが仮定してきた「生存それ自体が健康であることへの希求あるいは欲望」と「個別的な属性の序列化への欲望」の両者を内包している。「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」と「個別的な属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変」の両者は、どちらも生命の序列化・選別操作という行為であるが、そのことへの認識の生成は、<我々自身の無意識>が作動するメカニズムによって予防的に排除されている。
*この予防的な排除のメカニズムが、「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変は、肯定的なものとして意識できるが、個別的な属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変については、私は懐疑的である」というテーマ文1,2への応答記述の分岐を生成する。
*この予防的排除のメカニズムが作動する無意識の領域が、個人=記述主体の記述が位置するその都度の文脈の生成過程に関して最も根底的な文脈生成過程である。
*しかし、テーマ文3によってテーマ化された受精卵の選別・廃棄という行為に対する応答に迫られた個人=記述主体は、同時に、無意識における予防的な排除のメカニズムが揺らいでいく過程に直面することになる。この揺らぎの過程が、同時に「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」と「個別的な属性の序列化への欲望に基づく遺伝子の改変」の両者がどちらも生命の序列化・選別操作であるという認識の生成過程の端緒となり得る。
*執拗な予防的排除のメカニズムの抵抗に遭遇する個人=記述主体が、自らの認識あるいは言葉の生成にたじろぐのはここである。
「さきほどまでは、身近には考えていなかったかもしれない。しかし、現実問題、自分の身に置き替えてみると、遺伝子に傷がついていた、変な子が生まれるかもしれないと思うと、その時になってみなければわからない。否、考えたくないと思っている」という記述において、先の認識の生成と予防的排除のメカニズムとの無意識における遭遇の意識化という事態が表出されている。
*意識化された生命の序列化・選別操作に対する無意識の肯定的ファクターは、第二文の「変な子」という表現として表出されている。<我々自身の無意識>は、この「変な子」をいつもすでに胚胎しているのかもしれない。

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